現実とは
2020/11/28
デカルトは
「我思うゆえに我あり」
と言いました。
本当に目の前のものは
存在するのか?
あらゆるものの
存在を疑った末に
それでも
それを疑う
自分の存在を
疑うことはできない。
という意味の
言葉です。
私たちの
目の前にある
現実とは
何なのか?
例えば
コーヒーカップが
存在すると
なぜ言えるのか?
実際に目に見えるし
手で触れるから
存在するに決まっている。
という人もいるでしょう
しかし
目で見えるものは
光の反射の度合いを
視神経が感知し
それを電気信号に変えて
脳が情報処理をして
「見えた」と
判断しているに過ぎません。
手で触れる感覚も
結局は
電気信号なのです。
その情報処理の過程が
うまくいかなければ
見えないものが見えたり
見えるべきものが
見えなかったりします。
手が痺れたり
寒さに晒されたりすることで
触覚がなくなってしまうことも
よくあることです。
このように
私たちがの五感は
簡単に騙される
ことがあります。
ですから
デカルトの言うように
あるものが
存在するか
存在しないかは
私たちが
思っている以上に
危ういものなのです。
私たちが
思っている現実は
脳の情報処理によって
存在すると
思わされている
ものの集まりなのです。
私たちは
一人一人
違う記憶を持っています。
過去の経験や知識により
脳の情報処理の仕方も
人によって違うのです。
花についての
知識や経験を
豊富に持っている人は
たくさんの花が
存在する現実を
生きていますが
花について
ほとんど知らない人にとって
この世界には
ひまわりやたんぽぽなど
知っている数種類の
花しか存在しないのです。
ですから
私たちは
同じ地球の上の
同じ空間を共有しながらも
違う現実を生きています。
私にとっての
現実を
あなたにとっての
現実は
違うものなのです。
あなたの
過去の記憶や経験により
自分が重要だと
思っているもの
だけが存在する
現実を生きています。
もしも
コーヒーカップや
それに類する
知識が全くない人が
いるとしたら
コーヒーカップが
目の前にあっても
全くそれが
目に入らないかも
しれないのです。
原始人が
コーヒーカップを見ても
「変な形の石があるなあ。」
くらいにしか
思わないのです。
あなたの
脳やそれが作り出す心が
現実の存在を
作っています。
あなたは
どんな現実に
生きていますか?