人類の知恵|教育 本質 コーチング
福岡市にある立花高等学校で行われた
特別支援教育のセミナーで
教育哲学者の苫野一徳さんが
講演をされました。
教育の分野で
今、私が一番注目している人です。
「なぜインクルーシブ教育なのか?」
というテーマでのお話でしたが
始まりは苫野さんらしく
「そもそも」論から始まりました。
そもそも学校は何のためにある?
という問いです。
人類はずっと殺し合ってきた。
人類はその歴史の大部分において
人種が違えば殺し
民族が違えば殺し
思想や文化が違えば殺し
身分が違えば殺してきた。
異質なものは人間ではない。
殺しても構わないと思っていた。
そんな歴史に楔を打ったのが
ヘーゲルによる民主主義の発明だった。
みんな同じ人間であり
お互いを対等であり
自由であることを認め合う。
そのことをルールとした社会が
民主主義社会でである。
その民主主義社会を実現するために
三つの土台が作られた
憲法
公教育
福祉
ゆえに
学校は何のためにあるのか?
という問いの答えは
自由の相互承認の感度を育み
自由に生きるための力を育むため
である。
ここまでの論の展開に
本当に惚れ惚れしました。
どう考えても反論が思いつかない
骨太の論理だと思いました。
学校はお互いの自由を認め合う
ということが最も大事であり
それは
これまでたくさん殺し合ってきた
人類が歴史から学び
その反省の上に作られた偉大な発明だ
ということなのです。
国語算数理科社会は
もちろん大切ではあるが
それは
自由の相互承認の力を育むための
方法の一つに過ぎないのです。
人種・民族・思想・文化・身分など
異質な人の対話を通して
お互いの自由を認め合う活動こそが
公教育の本質だったのです。
教育の世界には
様々な教育方法があり、教育論があり、
これがいい、これが悪い
という議論が様々に交わされていますが
この本質に照らし合わせて
合致しているかどうかを
見ないといけないのです。
公教育という人類の知恵を
私たちの世代で
どうアップデートしていけるか?
それは社会全体の問題であり
教育関係者だけでなく
私たち全員が
考えていかなければいけない
問題だと思います。
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